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工藤玄良の門下に、瀧玄績(

不明

一八八〇

)がある。毛馬内医師瀧圭純一

不明-

一八五三

)の嫡子として玄良門で研鑚のの

ち、帰郷し家業を継いだ。嘉永七年(一八五四)三月毛馬内通代官口上之覚に「私共支配所瀧圭純義、親玄維代

安永二年中より在町共病用数年出精相勤候ニ付、先勤共申上天保三年閏十一月一生之内御役医並仰付けられ相勤

罷在候処去年九月病死仕り候、然処圭純忰玄績儀当三十九歳罷成医業相応之者ニ付」

「御沙汰向

並諸用記

)、玄績をも一生

之内御役医並にして下さる様にとみえている。かくて瀧家は玄維・圭純・玄績の三代にわたる医業の家であった

ことが知られる。

毛馬内における幕末の「処御役医」には、瀧、黒沢、勝又の三家があった(〓

「在々身帯帳』

・天保初年

)。文化元年(一八〇四)

四月黒沢道養一

不明

一八三四

の書上に「私儀本科三浦如山門人御座候処、数年御処病用御役屋御用共出精相勤候〓

仰上置かれ候付、去年八月御所御役医格仰付けられ御奉公相勤罷有」とみえ、文政四年(一八二一)三月「一生

之内壱人扶持」を下されている。同一〇年一二月「永処御役医」となったが、天保二年(一八三一)三月老衰の

ため忰道伯一

生・歿年

不明

年)に家督を譲り隠居した。道伯もまた医業に専念し、同一二年九月現米一石を与えられる

と共に嫡子周伯(幾助)が「一生鍼科」を命じられている。周伯はのち祖父道養の名を襲いだが、嘉永五年(

八五二)八月死去した。道伯(

嘉永四年三月

元仲と改名

り)の跡は明治二年三月養子の豊口源二郎二男伯仲が継いでいる

「前掲

書」

〓

勝又立貞(

不明-

一八六一

)の書上に「私儀御処病用出精相勤候ニ付、一生之内所御役医格仰付けらる旨、文政九年

六月仰出され相勤罷有候」、次いで天保九年五月寸志金献上「奇特之事ニ付御賞ノ為現米弐石下し置かれ、永処

御役医成下さる旨仰出さる」とみえる。嘉永三年三月立貞隠居し、嫡子文友

生・歿

年不明

が家業を継いだ。同四年

二月立貞は一閑と名を改めている(

「前掲

書』

)。

〓。

書』