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の師弟関係が明らかになる。しかし、頤庵は嘉永五年七月五九歳で歿し、三ケ田昌順二男熊五郎一七歳が末期養
子として名跡を継ぎ医師斎藤周監と名改めしている。前記の慶造については、その後知るところがない。
なお南部吉兵衛の御手医として、『雑書』弘化二年(一八四五)一〇月二日条〓
一、南部吉兵衛届書左之通
拙者家来川目喜兵衛弟覚治ト申者、御医師工藤玄良弟子罷成医術稽古罷有候処、医業モ相応ニ付致手医、関甫順ト
改名召仕申候、此段御届申候。以上
)には、斎藤周
と、関甫順の名が挙げられている。元治二年(一八六五)花輪南部家『御支配帳』
「花輪町誌編纂資
料第一号』所収
監と同じく禄七石、南岩手郡に居住とある。
尾去沢においては、御銅山医師関隆達が著名であった。また『覚書』明治二年三月一七日の項に、花輪給人・
一生役医村木春嶺に対する「御銅山御抱医仰付けられ候迄、當分の内御銅山え差向相勤め申す可き旨仰付け置か
れ候処御免成らる」との申渡しが記されている。
さらに毛馬内通町医として内藤委仲の名が知られる。大湯南部家『御次留帳』天保一四年に、同家中谷地源五
右衛門の海岸出張御供御免願に「毛馬内医師内藤委仲、福本藤吾ノ療治ヲ得」云々の文言があるので、当時福木
藤五口も医療に従っていたとみえる。
また『大湯諸士由緒書上』の内森田文仲元治元年八月付書上に「私親父祐儀若年之頃より手習子共取立教等も
行届追々御用ニ相立候者も不少、且亦無録ニて於御所御役医相勤候節ハ小給人之次座江仰出され、其後文政十年
三月十六日御感浅からず候、依之御米三駄永代下置かれ」云々とみえ、翌二年正月文仲の息文友の医学修業御暇