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をあげているのは、この時期毛馬内給人への劔・炮術稽古に勝又周治が多く当たっていたことを示すものであろ
フ。同『元治二年御用留』に代官西野轉の達として「諸御代官御役屋御構之内エ導場相立申度処、御給人ニ而心
願之向有之、右之段願上候ハヽ木品井為入料金七両被下置候、後年大破ニ而修覆之節ハ木品斗被下置、小破之儲
は不被成御構事」とあるが、鹿角において代官所近傍に藩校系列の武芸稽古場の設けられたのは、慶應期に入っ
てからのことと思われる。次いで同『慶應二年御用留』に八月一六日付代官より給人へ「明後十八日昼前劔炮術、
昼過より劔炮術御見分被成候旨、牛馬御目付目時隆之進達ニ御座候」と連絡されている。引続き時折藩目付級の
武芸見分が行われていたのであろう。
花輪通の状況も殆ど明らかでないが、花輪南部家『慶應四年諸御用留帳』二月九日条の演説において「御官所
稽古場ニ於テ定日申合、当住嫡子嫡孫二三男迄罷出、銘々覚悟ノ諸武芸尚無怠熟練可被致」云々とあるので、〓
の以前から「御官所稽古場」が設けられていたものと思われる。
炮術稽古
幕末における花輪南部家中の武芸稽古の実情について、同家『諸御用留帳』を通して見てみる。
この時期になると、重点が次第に炮術に移っている様子を強く感じとることができる。なお星場
とあるのは、北館とユルギ館の間の凹地にあった射撃訓練場のことである。
)弘化四年九月家士根市雄三に「武芸嗜方心懸宜精力を励深切ニ稽古致候段神妙思召」と褒詞を下された。
○嘉永二年一二月當処の稽古場が家中一統の手伝金拠出によって新規に建てられた。
)同六年一二月用人共が袋丁稽古場にて一火流炮術(御給人吉田新六取立)、山口流劔術(御給人関右平太取立)、そ
の外中嶋流早打、円伝流鎗術を見分した。何れも出精宜敷く見えた。