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載がある。

天保八年(一八三七)一二月四日、大湯南部家より家中山口廉蔵に対して、かねて兵学稽古に格別出精し「〓

古筋之内當年師家より伝来も有之、殊に取立方も免され候趣御聞ニ達し」、よって家中諸士一統へも沙汰するの

で入門の者へは何分深切な取立て方を今後とも精励するようにと達した。即ち家中諸士の兵学稽古について山〓

廉蔵にその取立て方を命じている。

同日、同じく家中諸士一統に対して、先年より鎗術は四戸軍助の、剣術は千葉十郎の取立により武芸の藝古す

天保一

行い、莫大な物入を以て藝古場を建て、出席帳など整えた処、去る卯

)の春雪害で倒壊し、その後連年

年か

の物入や不作で再建できぬまま稽古も怠り勝ちになったと聞く。「當年不少之作合にも候間、已来前々之通り嫡

子嫡孫共ニ出席藝古仕る可き旨仰せ出さる」とし、次いで「當住嫡子嫡孫共ニ兵学藝古仕り候様仰せ出され候、

取立方之義ハ山口廉蔵エ仰付けられ候」としている。

るお同一五年一〇月二八日、千葉十郎に対し「諸士一統劔鎗柔術共取立仰付けられ候」、武芸取立中一カ年米

一駄宛下し置かれる旨を達している。

禹延元年(一八六〇)閏三月二〇日付の記事には、藩家老東中務が海岸防備見廻りの序に毛馬内において武芸

を見分した折、大湯の千葉賢之助、谷地源次郎、谷地孝蔵三人の出来が宜敷く褒詞を頂戴したと見えている。ま

た同年一〇月二二日に、大湯武芸稽古場素建作料が釘代共で三六貫三八二文かかったので「金五両壱歩壱朱ト弐

百五拾八文」の下渡し金があった、と記されている。

元治元年(一八六四)に入り、欧米四カ国艦隊の下関砲撃や幕府の長州征伐などが相次ぎ、その影響から『御