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次留』にも、炮術稽古の記事が目立ってくる。即ち

○元治二年一月一六日

大湯御同心十五人願出、小筒弐挺拾匁一挺、右一同時節柄稽古用として、御屋舗より貸附ニなる。

○慶應二年一一月九日

演説

炮術稽古之儀嘉永六年之度仰出され候処、今以相嗜不申向も有之哉ニ相聞得等閑之至ニ候、當節之形勢別而警備向

専務之折柄ニ付、御組立エもケーヘル筒重ニ御渡成され候、依之打方之規則ハ勿論銃隊差図方號令之次第とも嗜無

之候てハ追々御組立御差支ニ相成候ニ付、御趣意通厚相心得銘々研究罷有可き旨仰出さる。

當今炮術御引立之御場合ニ付てハ、屋敷内ニて小筒空炮打試之儀ハ苦しからざる事。但し土玉たりとも玉込候毒

ハ決て相成申さず候事。

大湯においても天保期から家中諸士の稽古のため師範の者を置いていたこと、稽古場を建てていたこと、炮術〓

古についてはなかなか趣旨徹底が難しかったことなどが知られる。なお千葉十郎は、弘化二年戸田一心流長嶺七

之丞より免許を伝授され、萬延二年汲川仁兵衛に同流所伝を授与している

毛馬内桜庭家中においては、文政期以降浅沼郷左衛門が師範として門弟取立に当たったが、その詳細について

は伝えるところがない。

鹿角の諸流派

鹿角の武芸として、おもにどのような流派が行われていたか、武芸稽古御暇願や流派書上等

からおよその状況を跡づけてみる。