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延享二年(一七四五)の花輪給人関金平による御暇願(

一)に

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家文書

恐れ乍ら願上奉る事

私儀寛保元年より五ケ年中御所御用透御暇願上候処、願之通仰付けられ下し置かれ有難き仕合と存じ奉り候、罷出関

五郎左衛門所ニ罷有斎藤環門弟ニ罷成、不変流棒虎道迄傅受、同流組合中極迄稽古仕り候処傅受相残り、残念ニ存じ

奉り候間、相門之内より傅受得申し度存じ奉り候、尤佐羽内仁兵衛門弟ニ罷成、心的妙化流鉄炮稽古仕り罷有候、罷

成可き義ニ御座候ハヽ御所御用透を以罷出稽古仕り度存じ奉り候、依之恐多き申上様ニ存じ奉り候得共、當年より一

ケ年御暇下し置かれ度願上奉り候。(下略)

延享二年十一月

関金平

日戸杢兵衛殿

相内半左衛門殿

と認められている。宛所の日戸らは花輪通代官である。関金平の事蹟は明らかでないが、盛岡斎藤環から不変流

棒術を、佐羽内仁兵衛から心的妙化流炮術を伝受されている。金平の子関理平治も文化二年(一八〇五)閏八日

前掲

「吉田流印西派射術、岩館五郎左衛門門弟」と認めた書上

)を提出している。吉田流印西派は弓術である。

文書

毛馬内に隆盛を示した東軍流は、安永二年(一七七三)正月給人山本要松が福本藤兵衛よりその相伝を請けて

いる(

「御定法之事」

山本家文書

)。福本藤兵衛

「鹿角志』に福本藤

吾とあるは同人か

は毛馬内の人、数年の諸国遊歴の間に奥儀を会得したと伝え

られる。藤兵衛に宛てた門人の相伝請書に元文二年(一七三七)のものが残っているので、既にその頃から毛馬

内において東軍流の指南に当たっていたものと思われる。山本要松は同九郎左衛門(のち九左衛門)の子、安永