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八六三)二月藩士加藤友次郎の「私儀種田流鎗術師範罷在候ニ付、三戸、五戸、田名部、毛馬内、花輪通御給人

之内門人ニ御座候処、此節武藝御引立之折柄故、司処エ罷越御給人共取立申度存じ奉り候間、苦しからざる御儀

ニ御座候ハヽ往来共七十日御暇下し置かれ度願上げ奉り候(下略)」との御暇願が記されている。この願いは翌

日早速許可され、明義堂懸り目付へ届けられた上で町奉行より軽尻馬一疋の道中切手が発行された。同年八月荻

「袖

野流炮術桜井忠太夫も同様に花輪・毛馬内通の給人取立の為往来五〇日の御暇を願上げている(

)。翌四年七

孔』

月、再び桜井忠太夫は花輪・毛馬内通門弟取立の為五〇日の御暇を得ている(

「諸書留』岩手

県立図書館蔵

)。なお桜井の奥伝書

には「當流三代萩野六兵衛照良相傅安田知居門人桜井忠太夫経徳」と署名されている。

ほかに武芸修行のための出稽古も行われており、文久三年三月大光寺市郎と御徒石井軍蔵が「新當流劔術上村

分右衛門門弟罷成稽古罷在候、然処武術為修行沼宮内通より田名部、毛馬内、花輪通井八戸御様御城下迄相廻申

度」日数五〇日の御暇願を出している。この願書の宛所が明義堂御用懸り目付中となっているので、師範の出張

と同じくこのような出稽古も、明義堂の監督の下に置かれていたものと思われる。また同年七月宝蔵院鎌術安村

順左衛門門弟氏家仙吉が武術修行の為奥通両鹿角を含め日数七〇日の御暇を願い出発したが、途中病気で引返し

ている。同八月安村省三預り御徒岩館保太郎と市村東五郎が花輪・毛馬内通を〓術修行に廻る為、三〇日の御暇

「袖

を下され度いと願っている(

)。

扣』

この時期、所給人などの子弟達による「稽古登願」も目立つようになり、その例を掲げると

○文久元年九月

又久元年九月花輪給人佐々木和左衛門嫡子祐司当一九歳が新當流劔術上村分右衛門門弟の処、この度大森佐左

「覚

衛門が参勤の御供登りするのに随い、門外に師家を求めて稽古させたいので御暇を下され度い(

「覚)。

書』

)。