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一、

一、奥詰川口七之助

一、

『覚書』安政二年六月一一日条

霊承院様御絵像認方御絵師狩野佐助江被仰付候間、致差図可申候。

一、御給人並、御絵師狩野佐

霊承院様御絵像認方被仰付候間、川口七之助得差図相認可申候、右於奥申渡候段御側御用人申出御役人共江申渡。

『同』安政二年六月一二日条

一、

御絵師藤田祐昌

霊承院様御絵像認方被仰付候間、川口七之助得差図、相認可申候。

(『盛岡の美術(絵画)』)

南部

即ち、霊承院(

の絵像の制作を命ぜられた狩野佐助・藤田祐昌に対し、月嶺の差図を受けるように指示し

利済

たものである。月嶺は晩年、藩主利剛から真象の号を送られている。

月嶺、名は七之助、幼名栄七、字は有度、月嶺と号した。文化九年(一八一二)一二月花輪町に父七之助の一

男として生まれた。一八歳画業を志し、羽後・羽前を経て江戸に入り、四条派鈴木南嶺に師事し、同門の柴田是

真と技倆を競い門下の双壁と称されたという。その子月村の文に「其の画、南宗より四条に入り写生を主とし、

専ら活動を尊び、運筆の微妙を意得し別に一家をなす。その鳥獣に至りては特に飛動の態あり、曽て侯命を奉じ

金屏二双を画く。三年にして成る。一ツは花鳥、一つは蘭亭、二ツ共着色に意を用い、緻密頗る鮮麗を極む。故

月村書

郷大日堂牛の巨額は人の噴する処なり」(

月村書「川口月嶺翁

の履歴」川口家文書

)とある。

横四・八メートル

大日堂に奉納された牛の大絵馬額)

〓)は、大きな杉板に牡牛一匹を特製のわら筆を用いて墨

縦四・二メートル