テキストを表示

は、現存資料の上では寛政期以降のようである。本章「鹿角の学問」の項に述べたごとく、『錦木山観音寺縁起

に併せ綴じられた無表題の錦木塚歌句帳

高橋

家文書

)が、寛政八年(一七九六)の序文を掲げ、享保三年の前書を

もつ和歌を載せていることから、現在のところもっとも古いものとみられる。その序には次のようにある

ひとり童を積冊をかさぬるものハ此道のまめ人にしてそれさえ朽なむ事を思ひ侍るやかの楚結布やふのもの表になし

て誰渠の家の集なと羨れけるまして名にし負ふけふの錦木尋来て詩歌連俳をうたふ人〳〵あまたならむに其草々埋れ

む事を哀むものは細布ヲ織なる宿のあるしにして是をくまなく冊子に拾ひ千束の数積むとす其いみしき事や伊勢の甕

の貝や拾ハむ玉や拾ハむ事にハなりけり問ひ寄人も龍のすさひを爰にふるハ、彼の雲霧の紫徴なるもの又揺曳として

爰に聚り各其名ヲ末世に及しあるしも永く冨てむものをと寛政八の秋七月東都の行脚楊柳庵毫をとス

懐古

秋風の吹をとのミそ塚の原如法

江戸の旅人楊柳庵とは何人なるかは明らかでない。いろいろ立派な歌集などのあるなかで「まして名にし負ふ

けふの錦木尋来て詩歌連俳をうたふ人々あまたならむに」、それをまとめることもなく失い去るのは悲しいこと

だという慨嘆のなかからも、錦木塚を訪れる人の当時少なくなかった様子を察することができる。そしてこの冊

子を編もうとするのは「細布ヲ織なす宿のあるしにして」と、古川村に住む錦木塚別当黒沢其石であったことを

七言

示している。この歌句帳の冒頭には、まず龍蕎狂夫の漢詩「錦樹墳動

」が記され、次いで「享和三亥のとし

古

古-

長月の頃此縣の任にまかりけるに道の邊に錦木墳を見て」とし

秋は猶色にそ出て錦木のつかのむかしをしのふ紅葉葉円

将易