テキストを表示

(

安永三歳

鳴神月

)など、いずれも貞門系流行の所産である

岩手俳

諸史』

)。

鹿角の献額でもっとも古いものに、安永二年(一七七三)上芦名沢・芦名神社奉納の句額がある。表題が「宏

懸金光寺観音堂句寄」、願主は「ハナワ、小太夫」で、ハナワ、白根、十二所の二九名の長短六〇句が並んでい

る。はじめに句題として「松の花」とか「枯柳」とか一〇の季語と、短句二〇句と長句五句が示され、次に長短

六〇句が並ぶ。俳人名は、(ハナワ)一盤、小太夫、一有、上小路、一松、愚見、友永、梅子。(白根)蔵守、紫

船、花鳥。(十二所)安平、可水、井草、四角ら一五名である。鎌田亮「鹿角俳諧・俳句史抄」によると、この

時期貞門系や前句付が流行していたことと同じ傾向を示している

市中庵句帳

渡部家

句集としては安永六年(一七七七)七月『句蝶』

)がある。表紙に「市中庵・行脚芝

所蔵本

園」「南部花輪連中」と認めている。市中庵芝園の伝は不詳であるが、跡書として次の一文が

あるので、都を出て東北地方へ行脚の旅を続けていた俳人であろう。

都をハ霞とともに出しかとは□人の風情にして、我れハ古郷を千里鶯に誘われ、(略)けふ白川の関も打越て、はや

秋風の吹く夕暮に奥の細道の跡を慕へ、その松嶋に吟行より爰の錦塚も尋ね来て、袖の振合も露ならぬ交情をむすび、

先つは南花なる里に杖笠を休め侍る、しかるに此地は黄金の山続にして鹿角の盤栄とは世のしれる所也、爰に予ハ

泊の膝を容れさセんとて古城の下に一庵の侘をしつらひて、仮にこの名を市中庵と号し、或は十論或はことばに祖

の遺教在を説改れハおのつと邪風の悲を悔ミておのつと正風の是にすゝめハいさや杖の先達の覚束ならし側の牲には

草々の花の姿を先にし側の峠には松の言の葉の情を後にし今や文臺の開きはしめとはなりぬ(下略)行脚芝

花輪館の下に一庵を設け、支考の「俳諧十論」などを使って焦風を指導し、貞門系の俳諧や前句付けの流行を