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騒かしく雨の過けり蓮の花蕗谷
あると聞く道なつかしき清水哉眺翠
実ひとつに五色そなわる林檎哉麟趾
聞なれぬ聲もあるなり山の〓〓屈
曇らねと若葉にたへぬ雫かな雲楼
円徳寺にも同じく元治元年の献額がある。初めに「むしの音の一はりつゝや草の風橘庭臥〓居士」の句をお
き、ついで臥〓居士の句を発句とする歌仙と、一段下げて四〇人の句が並ぶ。臥〓追善のもので、参加者も専正
寺献額と殆ど同じで、大館の五鼎、洪竹、十二所の直蓬、雲水の逸斎、毛馬内の楚水、顧影、花輪の馬城などが
加わっている。催主に蕪城、固執、寛蝶、妻ゆり女、男宮峨が添うている。
これらの献額から、天保以降において花輪の俳諧が実に隆盛をきわめていること、その交流は盛岡方面より大
館・十二所などが多かったことを知り得る。花輪俳壇の中心的存在は、天保初頭には梅雫、元治以前には好山、
鹿角俳諧
梅窓、臥〓といった俳人たちであったと思われる一
)。元治元年献額には、雲楼小田嶋由義や眺翠関純
俳句史抄
蔵らもあらわれはじめている。
幕末期の地方俳壇に広く活動した人に麟趾瀧玄績がいる。麟趾は毛馬内の御役医、盛岡工藤玄良門で医学を修
業した。嘉永四年(一八五一)の『俳諧風雅帳』
八戸三峰館寛兆誌
・寿川亭常丸著
)、同五年『鳴はしめ帳』一
頁洞卓
堂刊
)に入集してお
り(
前掲
書
掲)、蕗谷や月郷ら毛馬内俳人の多くが師事している。蕗谷は毛馬内の人鎌田忠太郎、十湾亭と号した。
盛岡の貫洞卓堂
盛岡藩士、初め士由門、
のち大梅・卓朗に師事
)および於曽此一の教えも受けたといわれ、幕末から明治へかけ毛馬内第
一の俳匠として多くの後進を導いている。