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へ提出されたが、総督府参謀世良修蔵らの意見によって拒絶された。同一九日まず仙台・米沢両藩は会津討伐の
解兵届を提出した。二〇日福島において世良修蔵は過激な仙台藩士の襲撃にあって暗殺された。仙台藩は翌二一
日岩沼本陣より総督を仙台に移してその動きを封じた。同二三日盛岡藩も他の諸藩とともに解兵届を総督府に提
出して兵を引揚げた。
再び白石と仙台に奥羽二六列藩の重臣が会合し、同盟強化のため閏四月二九日盟約決議をあげ、この難局に奥
羽各藩が結束して当たるべく五月三日白石に公議府設置を決めた。ついで新発田など越後六藩も加盟し、こにに
仙台藩を盟主とし新政府軍に対応する奥羽越列藩司盟が成立した。仙台に移った総督はその後の事態を憂慮し、
秋田方面にあった沢副総督と合流すべく盛岡への転出を決意して、五月一八日仙台を発し翌六月三日盛岡に到着、
本誓寺に入った。
鹿角境の緊張
れより先、鎮撫総督府は四月一四日沢副総督を出羽に派遣し、出羽諸藩を督励して会津討
〓と庄内進撃に当たらしめようとしたが、奥羽諸藩の白石会議以来、鎮撫総督の指令は次第
にその力を失なうに至っていた。五月一日、沢副総督は新庄を出発して秋田へ向ったが、秋田藩から薩長兵を率
いていることを理由に領内の滞陣を拒否された。一行は津軽へ赴くことに決し、五月一六日大館に到着した。暫
く大館に滞在の上津軽藩との間に交渉を重ねたが、ここでも同じく入国を拒否される結果となった。一行の人数
は、五月一八日付毛馬内御境役からの風説書に、沢殿上下二四人、筑州一三六人、薩州一二四人、長州一〇四人
と報ぜられている
『御境御用留』
勝又家文書
副総督と随従の薩長兵が大館に宿陣するという事態は、鹿角の人心に深刻な波紋を広げた。副総督一行が鹿角
○。