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目付田中武左衛門、代官、下役、物書、御境役など上下二〇人程計五〇数人で十文字より張場、下モ新田、田郡

へ廻り帰途銅山を見て帰っている(

阿部恭助『日・

記』慶應四年

○。

同一一日、田中武左衛門、徒目付織笠只見が毛馬内御境筋の間道見分のため、代官三浦五郎左衛門、御境役、

古人等立合いの上、瀬田石村より外ノ沢へ廻り白根まで見分、それより小玉久保を経て毛馬内へ帰った。終わっ

、瀬田石村入口に番所もしくは他領往来堅く停止の高札を建てることを協議している

「御境御用留』

勝又家文書

)。

この前後にわたり、花輪南部家『諸御用留帳』には火薬製造や武芸稽古、調練の記事が頻りにみえる。

同帳六月二四日の項に、御觸出しとして「九條殿来ル廿四日、醍醐殿同廿二日御發輿、秋田え御転陳被成旨被仙

出候段、右役方より申出之」との達を記している。『公武風聞集』には、九條殿醍醐殿人数は六月一九日より同

二四日迄橋場越で佐竹領へ転陳した。随従の人数として細川鍋倉小倉の三藩七〇〇人斗り。長持は鹿角へ廻しそ

の数二三棹、二八日花輪泊り、当藩徒目付、同心の宰領で、九條家の人数は一人も通過しなかったこと。さらに

○六月六日硝石入用のため立働の者を申付け、硝石のある地所は故障なく取らせることを命じた。

○一〇日川村伝之助が十匁銃炮と「早粉入輪束」を上納した。

○一三日鉄炮手入の人数として川村仙蔵、浅利勇七、安保卯七、吉田勇次郎が詰める。

〇一四日鉄炮薬制法方、源右衛門、練蔵、勝弥、宇七、勇右衛門、伝之助、斧助、蔵之丞、人足六人勤める。

○一五日制薬人数が働き、合薬二貫五〇〇匁できる。

〇一六日同じく合薬四貫五〇〇匁でき、右人数並びに人足六人へ諸味二升宛下さる。

○一七日鉄炮制薬五貫匁できる。

〇一八日今日は人足なしで三貫匁でき、諸味三升下され、明日から休む