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戦雲動く

)。

盛岡に在って番頭石亀左司馬は藩老に勤王説の建白書を提出し、当時蟄居の身であった前家老東中務等も鎮撫総

督擁護の態勢を崩さず画策に努めていた。

鹿角にあっては、さきに九条総督の盛岡転陳に際し藩境へ出迎えの戸来楽眠に従っていた、毛馬内の桜庭家中

近内一人が六月一日一行を抜け、盛岡桜庭邸で割腹自殺を遂げた。これは同盟派に対する死の抗議であったとい

われる。また同じく毛馬内桜庭家中の熊谷助右衛門は、六月勤王への決断を要請して藩主宛の上奏文を草し、や

がて王政復古が天下の大勢であることを説いた慷慨の書「時勢論」

「鹿角市史資料

編第一集』所収

)を懐にして出陣している。

局面は再び非常の事態へ向かって緊張の度を加えていた。両鹿角警衛の任にあった南部吉兵衛は、

七月一日農兵御備見分に臨み、二日御備調練、三日花輪大久保平における家士人数の御備調練、

四日毛馬内通御境見分、五日毛馬内通御備見分と、多忙な日程の下に警衛態勢の強化を図っていた(〓

花輪南部家

"諸御用留帳』

農兵御備なるものがこの時点でどのように組織されたか詳かでないが、のちに戦闘部隊に編入され実戦に参加し

ている。

四日、南部吉兵衛は代官名代石田定之助、桜庭家の中津山冨右衛門を従え瀬田石村から作り坂(札立場)を登

り御墨引通を見分の後、立石長根において遠鏡(

望遠鏡の

ことか

)で秋田十二所方面を遠望、さらに古人共より十和田

御境通並びに清水ケ峠御境通の説明をうけ、白根へ下り石野舟場、神田村を廻り花輪へ帰館した。惣人数四〇人

程であった。五日は、毛馬内中の崎陳場において毛馬内給人嫡子嫡孫二三男迄、それに大湯と毛馬内桜庭人数、

農兵の五〇〇人程が加わり惣勢七-八〇〇人の御備調練を見分している(

「御境御用留』

勝又家文書

)。

なお七月二日藩庁より肩章の取付けについて次の達があった(

『御沙汰留

勝又家文書

)。