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更に盟約違反は不忠過激の徒の企てたものであるから、今般の挙軍は秋田藩主佐竹右京大夫殿の御為で、農商を
敵とするものでないことを述べた布告文である。この布告文は秋田領へ討入の後十二所には高札として立て、ほ
かに板木に摺って占領地の村々へ配布している。
毛馬内館を未明に出立した向井・桜庭両隊は、白根村から葛原に向った。葛原へ越える間道は難所中の難所で
ある。地蔵坂の峻嶮を大砲を引いての進軍は困難を極めた。『秋田藩江討入之日記』は
大森山越に嚮導頭勝又官兵衛農兵二十人、〓頭児玉善弥、〓十八人召連れ、葛原村後江出候手筈、惣勢は白根村江小
休、地蔵沢越実に難道申斗り之れ無く段々進軍、牛一疋第一に牽かせ、次に嚮導之者先立ち、大炮隊中野俊蔵、二番
鳥蛇隊村井定之助預り一小隊、七番発機隊中村泰五郎預り小隊、昭武隊足沢左十郎預り人数、次に旗本、五六丁隔り
桜庭祐橘手勢井預り御番子追々繰出し、地蔵沢嶺通り押寄、葛原入口野平江陣取云々。
と葛原間道の難行軍を伝えている。
漸く切落しの急坂を下り狐窪に到着した時、遙か十二所の方から砲声が聞こえて来た。各隊は、既に楢山隊は
十二所へ討入ったものと馬を急がせ、葛原の東四五丁の柳平に布陣した
宣戦布告
この前後楢山佐渡、向井蔵人から十二所の秋田藩守将茂木筑後へ宛てた戦書が届けられた。持参
したのは、花輪同心玉内市右衛門、関富次郎である。
筆啓上致し候。然は此度庄内御再討仰出され候義は、何等の義ニ之れ有可き哉、先達而総督府より御達には、徳川
豕回復之儀主として取計い、且薩邸江暴動候段庄内罪状仰出され候得共、是は君臣之分余義無き次第ニ而深く悪む可
き之儀も之れ有間敷、朝廷にも情実御憐察成下され候ハヽ、御宥恕之道にも之れ有可しと先達而仙台御同盟之上尊藩