テキストを表示
楢山氏の軍勢は、十二所の郊原と三哲山の半腹と其麓と其南なる森林の中より大小炮を烈しく打立る。煙の立揚り或
は籏や合印の風に翻り日に映し、役司の馬上にて采を揮り、士卒に下知するを米代川を隔てゝ見たり。敵勢初は三階
橋の辺に進出て居たるが、後に十二所の外れ杉林の中より大小炮を打立たり。我両将銃隊を繰出し、米代川の岸に陣
を布かせ、敵勢の横を撃ち楢山氏へ応援しければ、敵頓て此方へも〓発しけり。未の刻十二所の南の方の山に軍勢の
見へて大小〓の烟り立けるを敵かと疑ひしに、こは別所口より打入し新御番頭石亀左司馬殿軍勢のよしなり。
南部軍は正面から楢山本隊、米代川右岸から向井・桜庭の銃隊、別所口から山の手に廻った石亀隊の、三面か
らの攻撃であった。佐渡隊は数百挺の鉄砲を打ちこみ、その煙の下から昭武隊が槍先を揃えて突入した。この時
茂木居館から一発の号砲が轟き、居館から火の手があがり、町の各所が火災となった。この火災は南部軍の放火
もあったろうが、退却軍の自焼も多かったといわれる。
戦闘三時間余ののち午前一一時頃、茂木筑後は撤退を始めた(
「秋田
県史』
)。茂木は扇田にも留まらず、軍容を整え
るべく一挙に早口まで退いた。
緒戦で勝利を博した佐渡は、兵を十二所三哲山に伏せ、本隊は沢尻に宿陣した。米代川対岸の向井隊は葛原村
に、桜庭隊は郊外の柳平に宿陣していた。その夕刻白根にある小荷駄隊から兵糧を送って来た。「終日の合戦に
気の疲るゝより腹のすいたるまゝ、人の頭の大きさに掬ひたる丸飯一つを取て食しに、半ば生米交りにして菜は
生味噌なれば、今まで治世に馴れたる弱武者の中々給やられぬ程なれば、大事の時の用意とて母御が持せて腰に
「出陣
ある一と握りを取出し、此夜の飢を凌きけり」とある
一日の兵糧は米八合、味噌三〇匁、塩二勺の積
日記』
りであった。