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南部吉兵衛隊の十二所進駐

翌一〇日、佐渡は花輪へ使を出し、南部吉兵衛に十二所の警備を要請し、本隊は附近の残敵掃討に当ったが、

午の刻(正午)より大雨となり士卒を休養させた。

この時領境警備を命ぜられた南部吉兵衛は、主として銅山の山々の堅めに当っ

川村

いいた。花輪南部家『軍中御用留帳』

)八月一〇日條に次のようにある。

家文書

昨九日十二処え御打入にて不残発火御焼払成られ候に付、大館え御進軍成られ候間、御手前儀兼而仰付け置かれ候通

十二処え一手に応援仰付けられ候間、御人数の儀は同所え早々出兵成られ候様仰付けられ候間、其意を得らる可く候。

以上

同十日

同十日楢山佐

楢山佐渡

南部吉兵衛殿

十二所出兵の要請を受けた吉兵衛は、家臣一同へ軍忠を尽すよう申渡し、御酒を配り朝四ツ時(九時)出陣し

た。この時の南部吉兵衛隊の編制は、章末に掲げた通りである。十二所に到着したその手勢は、兼ての打合せ通

りに周辺の残敵を掃討し、守備についた。

火辰戦争は武士だけの戦争ではなかった。農兵から武器弾薬・兵糧輸送の小荷駄隊に至る

まで、戦闘部隊以上の百姓町人が動員されたのである。『秋田藩江討入之日記』から農兵・

小荷駄や農兵に

徴用された百姓

双と書かれている分を抜き出すと次のようになる。

○葛原口(向井蔵人隊)

〓導の者に農兵六人ホート炮に村夫一六人農兵四二人農兵三一人村夫三〇人計一二三人