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二〇日早朝から進撃が開始され、擬兵を袴腰山に登らせ、向井軍は山の手を、楢山隊は本道をひた押しに進んだ。
善知鳥坂の戦に破れた秋田勢は、扇田神明堂に拠り頑強に抵抗した。
桜庭隊は中山村の敵を駆逐し、川向いから猛射を浴せ、本隊の一部は迂回して扇田の街の下手から火を懸けた。
火は見る間に燃え拡がり、市街は火の海となった。その戦況を『出陣日記』は
川向の身方は二時計り討合、日の暮る頃銃隊を分て炮発しながら扇田の下もの方へ廻し、市中へ火をかけ、其大砲隊
は迫合の中に屡々炮烙玉を打込しが、敵の頭上にて一つ二つ発せしかば、敵兵舟に乗るもあり、川を漕ぐもありて大
館を指て逃失せたれば、川向の身方は進て彼の神の堂へ火を放ち、又其傍近の村々民家へ火をかけたり
と記している。第二次扇田合戦は大勝であった。寄郷市川村を含めて扇田四〇〇戸の内、類焼を免れたのは徳栄
于、寂光院ほか僅か六戸だけであったという一
「大館戊
辰戦史』
○これは去る一二日払暁の奇襲は村人の密告背反による
ものとする、南部軍の報復作戦であった。
その夜三将の軍議があり、明二一日を期し大館城に総攻撃をかけることを約した。
なお三浦・足沢両隊は一七日秋田領再討入の指令で再び進軍したが、秋田勢の抵抗に逢い小競合を繰返し、二
一日の大館攻略戦に間に合わなかった。新沢口大炮方岩泉達三の『新沢口従軍紀行」
「鹿角市史資料
編第一集』所収
)によると、
三浦・足沢両隊は「廿三日雪沢進軍、此夜大館江宿陣」とあり、両隊の大館着陣は二三日となっている。『鹿角
口戦争実記』には
八月二十四日、新沢口進撃足沢内記、三浦五郎左衛門今日大館へ着、直に碇ケ関押として長走え出張
とあり、大館城攻略遅延の不覚によって大館駐留を許されず、直ちに津軽国境警備に廻されている。