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大館市中は火の海と化した。大館城城門を砲撃していた見前篤治は、柵の内から乱射され戦死を遂げた。打ち砕
かれた大手門からは青木俊助等昭武隊、東門からは目付参謀太田錬八郎等が人やぐらを築き、同時に乱入した。
「秋田藩江討入之日記』に「城乗取左之通り」として
足沢左十郎七戸権兵衛太田錬八郎杉田斉宮三田善右衛門柵山左衛機大砲隊
の名が載っている。籠城玉砕を覚悟していた城将佐竹大和は、家臣に諌められ穴門から脱出した。
楢山佐渡は予定通り七ツ時行動を開始したが、米代川川原の伏兵に阻まれ、山王台の陣所へ到着したのは九ッ
午前
時(
)であった。城内を見分し部署を定め、佐渡は追撃戦に移り、向井・桜庭は占領地の治安に当たるこ
一一時
こになった。大館城攻略で、討死は前記見前篤治、井上範之助、手負は江田久之助、鳥蛇隊附助右衛門と、損害
『秋田藩江討)
入之日記』
は軽微であった
)。
二、南部軍の後退
坊沢合戦
伍渡本隊は二五日坊沢に進出、ここに本陣を据え、数十カ村親郷肝入を召集して占領地住民の鎮
悲に当たり、戦争の目的を説明し住民を敵とするものでないことや三カ年間貢租の免除を約束し、
協力するよう説得した。一方花輪南部吉兵衛隊には、福岡給人鉄炮武者と妙光院人数を加え総人数で十二所の警
衛に当るよう命じ、二五日集合を完了した。
二六日盛岡から来援の風雲隊、発機隊を迎え、二小隊を鷹巣・米内沢に派遣して側面を堅め、二七日を期して
小繋の大館勢に総攻撃をかけることにし、今泉まで軍を進めた。大館を捨てた佐竹大和は、急使を本藩に送る一