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しよし。
大館城の放棄
罔部軍は、連合軍の急追に退却を重ねながら大館城に入った。南部軍を急追した連合軍は大
館と指呼の間に迫ったが、三面が田圃に囲まれた大館の守りは堅く、容易に近づくことが出
来なかった。『鹿角口戦争実記』に
敵、勝に乗し大館之内台野と申す處迄進来候に付、煙山律之助、井上範之助預隊敵の横合へ相廻し挾討にいたし、前
より烈敷打立候處、敵散乱烈敷追討候處、敵大炮三門弾薬許多捨置き散々逃去候に付、楢山佐渡手引揚大館町外神明
堂へ宿陣、向井蔵人手は大館城内え帰陣。
とあり、一挙に大館の回復を図ろうとした連合軍を退けた。
九月三日は大雨で休戦、この日南部軍は三将の軍議によって総反撃することに決し、四日は未明から全線にわ
たっての大合戦となった。午前中は南部軍が優勢だったが、午後から次第に敗色が濃くなった。その夜五ツ時
小後八
〓)神明堂で軍議が持たれたが、大館放棄も止むを得ない状況であった。
問
板沢から扇田に進出した連合軍は次々と十二所の南部軍に攻撃をかけ、大館にある南部軍の退路を断つ構えを
見せた。弾薬の補給も兵員の補充も思うに任せず、孤立した大館の保持は無意味となった。
五日の朝から行われた合戦は、大館城撤退の擬装であった。前掲書の九月六日条には玉薬も手薄となった事や、
十二所口や葛原口に敵軍が進攻し退路が新沢口一つになった事を挙げている
據守の目的これ無きに付、当城引払之儀相決し、新沢口より楢山佐渡毛馬内松山へ引陣、向井蔵人瀬田石引陣、桜庭
祐橘毛馬内館へ引陣、足沢内記隊、地儀隊、高杉福治隊、堀江正平隊、昭武隊半隊水澤村へ押として止陣。