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困難さを増してきた。

大湯南部手勢の戦闘

かねて編成を命ぜられていた南部監物手勢は八月八日、目付坂牛孫久、太田新太郎よ

り、津軽押えとして濁川村出張の命令を伝達された

「濁川出

陣日記』

○。

八月八日、夜九つ時出張可被成旨、坂牛氏より申来る。

八日の夜四ツ時

午後一〇

時頃

○)大湯出立、九日八ツ半時に濁川村に到着し直ちに配備についた。濁川は郡北に位置

し、秋田口の戦線に遠かったが、八月一〇日改めて古渡戸・新渡戸の藩境を廻山し油断なく警衛するよう指示さ

「同

れた(

)。

書』

(八月一〇日)太田廉助津軽表御用在之罷帰、八つ時着合戦之次第承る。

八月九日から九月四日まで、平穏な警備を続けていたが、四日に鳥蛇隊一小隊が増強された(

「同

書』

)。

此度鳥蛇隊一小隊差越候間、自然異変之節は相談之上取計御警衛可致旨御達。

しかしこの鳥蛇隊は間もなく小坂村へ退陣した。

この頃になると盛岡藩は撤退につぐ撤退で、既に大館城を放棄して戦況は著しく不利な状況にあった。一二日

下田物集女、足沢左十郎、田頭内蔵丞、太田錬八郎の連名により、敵勢が袈裟掛まで押寄せ同方面が手薄になっ

たので、相詰めるよう命令を受けた。

一三日未明、監物手勢は袈裟掛に出動した所、目付七戸権兵衛より、新沢口の三浦五郎左衛門、坂牛孫右衛門

の警衛場所に廻るよう指示され、同六ツ時

午前

六時

)日くらし峠へ着いた時に激しい戦闘となった。その夜は烈風

大雨の中に野陣を張った。