テキストを表示
第三節盛岡藩の降伏
一、盛岡藩降伏す
停戦の申入れ
南部軍は大館撤退後、次第に藩境間近く戦線を縮少し、戦いは藩境の天嶮によって一進一退
を繰り返すのみであった。
九月二〇日未明、盛岡から藩主の直筆書を持った急使野田丹後が到着した。その直書は
今般朝廷より御内命の廉もこれ有、且奥羽同盟の列藩謝罪相願候趣申来り、旁此方にても右に準じ申出候、含之事。
(『出陣日記』)
現大
との内容であった。この直書に基づき、急遽楢山・向井の両将は水沢
)にある佐竹大和の陣所へ停戦を申
館市
入れた。
盛岡においては、春以来藩主名代として京都にあった三戸式部が九月一八日帰藩するに及んで、情勢が大きく
転換した。式部は朝廷からの帰順の内命書を携えていた。のみならず奥羽同盟軍は、越後・白河など諸所におい
て敗退し、三春・米沢藩なども降伏し、仙台藩は九月一五日帰順を決定して既に総軍引揚を指令しており、ひと
り盛岡藩のみが秋田藩と交戦していることが明らかとなった。この事態に驚愕した藩は、直ちに三戸式部を鹿角
へ派し停戦の処置をとらせることとした一
「岩手)
県史』
〓。