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下迄行ったところ、秋田か津軽かわからぬ敵が古達部口、新渡戸口より寄せて来て濁川村に放火、早速駈付け御番所

近くで炮発し防いだが、もはや村中大火となり、拠ろなく村下モ家の後口より炮発した。しかし煙のため敵の進退も

見えなくなったので、同村欠の上へ引揚げ炮発しているうち敵は退いていった。

また『秋田藩江討入之日記』によると

九月二十五日

今未刻頃濁川村江津軽兵二百五十人斗り不意ニ押寄鉄炮厳敷打掛、御境御番所井に百姓家トモ数十軒放火致候ニ付、

監物方手勢ニ而相防ぎ難き趣注進これ有、應援として兵隊村井定之助遠藤良之助隊敵の左右より包打ニ致し候処、敵

散乱迯去候趣、之れに依り尚厳重御警衛之儀申達し、取敢ず焼失之者江御手当米一人江白米片馬つゝ下され方、御勘

定奉行照井賢蔵江申達候事。

とあり、内容に若干の齟齬がある。

この合戦で濁川村御境古人池田佐五右衛門は五八歳の老齢ながら、ただ一人鎗を振るって防戦し、敵に突入し

て討死している。

九月二六日の暮には南部監物手勢の全員が、大湯へ帰還した。この津軽兵による濁川村攻撃は、戊辰戦最後の

戦いであったとともに、全期間を通して鹿角郡内における唯一の戦闘であった。

歎願書の提出

降伏歎願書を九條総督府へ提出すべく、藩主名代として世子彦太郎が、分家七戸藩主南部美

作守信民に付添われて、一〇月一日盛岡を出発している。同三日花輪着、花輪館本丸に宿泊

したので、一時南部吉兵衛は横町小山庄助宅に移っている。四日花輪出立し十二所の官軍本陣に出頭したが、前

山参謀より久保田にある総督府に出頭するよう指示された。