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之進はその後の困難な終戦処理を担当する事になった。一〇月一五日、楢山佐渡を始め謹慎中の諸重役はその役
職を免ぜられた。
二、官軍の進駐
官軍の鹿角進駐
盛岡藩の敗北が決定的になると、花輪・毛馬内の老人や子供は次々に山間部へ難を避けた。
佇戦の後、一〇月に入ると鹿角へ雲州、鍋島、肥前小城、秋田、弘前藩など官軍が続々と
進駐してきた。その一〇月前半のあわただしい状況について、尾去沢銅山主役阿部恭助は『日記』の中に、おお
よそ次のように書留めている。
)一〇月二日今日鹿角両通へ官軍二千人が入ってくる曲、御銅山へ廻る人数は下新田より入るので山内の者共が
動揺して不作法な行動をとらないよう達があった。花輪へ楢山佐渡、三戸式部、野田丹後が出張し代官所に宿陳す
るので、仮官所は関村貞衛宅に移るなど、花輪は一方ならず人馬が混雑している。
)同月三日彦太郎様一行が花輪へおいでになる由にて銅山へ夜具借上げの命があったが、先日毛馬内通へ取集め
て差出したあとなので、ようやく夜着二〇、布団一八を今夜届けた。また官軍が両通へ入るためその御入用金とし
て金子二〇〇両の借上げを命じられ、次の割付があった。
二〇両御支配人処両人三〇両御日払処四人五〇両御山元処五人一五両田郡本番
一五両元山本番一五両赤沢本番三〇両役屋御役処二〇両炭方御役机
〆一九五両不足の五両は何れからか御借上げ
○同月四日盛岡から出張の藩士ら一〇数人御銅山拝見、肥前藩中五人同じく拝見。