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盛岡からの帰途に鹿角を通過する官軍の模様を、『出陣日記』は「同十四日諸藩の兵隊盛岡へ往もあり秋田津
牲へ帰るもありて、両鹿角立払になりぬ」「同十五日大館の佐竹大和も毛馬内へ入来り、仁叟寺及市中へ宿りぬ、
こハ先の日十二所の茂木筑後と同く、松山口より入り湯瀬村迄往しに、又戻り来しよし、大和菊御紋の籏を持せ
しなり、翌十六日毛馬内を出て新沢口を廻り帰りたり」と記している。
また一〇月一〇日横手において南部彦太郎の提出した軍資金七万両上納の歎願書により、その手伝金として毛
馬内通へ一、二〇〇両の割当がなされている(
「御沙汰留』
勝又家文書
○花輪通の金額については明らかでない。この手伝金は
高知の藩士等にも割当てられ、『出陣日記』一〇月一二日の項に「一、千両桜庭裕橘」、花輪南部家『諸御用留
帳』慶應四年の一〇月一五日の項に「御家士一統御呼出の上、旦那様此度御軍資金千五百両御蒙被遊候ニ付、御
家士一統一名弐歩當御用金被仰付旨申達」とある。但し南部吉兵衛の場合は、家士の『工藤賜日記』に「十月廿
日、御上にて御謝罪金七万両差上候ニ付、御屋敷へ千五百両御用金被仰付、依之御家士一統へ身帯高一石に付一
歩宛被仰付」と記され、家士の拠出高に相違をみせている。
阿部恭助『日記』の一一月一五日記事には、この度謝罪御歎願の御軍資金上納のため、御銅山へも支配人手代
初め末々の者まで御手伝金を命ぜられたので、一同で上納金をまとめ金子惣高五三二両一朱を今朝盛岡へ差立て
た、とあるのをみても、戦後処理の賠償ともいうべき謝罪金は、領内各層に重い負担としてのしかかっていたの
である。
秋田藩の駐兵
○月末に南部領取締りを命ぜられた秋田藩は、藩士を盛岡へ派遣して監察使より盛岡城の
引渡しを受けた後、一一月一四日南部家重臣より一切の事務を引継ぎ、城中に南部表鎮撫行