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政司庁を開設した。同藩の南部表派兵届書によると「猶南部地取締被仰付候ニ付、別紙之通兵隊並役員出張申付
候」云々として次のように記されている。
小野崎三郎六小隊右ハ盛岡入城
梅津隼人助四小隊右ハ予備兵トシテ南部領鹿角繰込候。
(『太政官日誌』明治二年二月一五日付)
右の秋田藩兵四小隊の鹿角繰込は、一一月二一日から二二日にかけて行われ、『出陣日記』には「十一月廿一
日秋藩兵隊二百五十人花輪へ来り滞留」と書かれている。阿部恭助『日記』にはさらに詳しく、おおよそ次のよ
うな内容が記されている。
月二三日両鹿角警衛のため秋田藩八〇〇人が一昨日より出張して来、花輪三〇〇人、毛馬内三〇〇人、大
湯二〇〇人、十二所、大館、桧山等の人数で隊長は久保田から参った由である。尤も花輪通三〇〇人ということで
あるが、二一日に二五〇人来て隊長梅津隼人之介、御用達長左衛門方に宿陳
)一一月二四日花輪代官より官軍宿陳のため夜具五〇通り借上げたいとのことであったが、毛馬内へ貸上げた分
を取寄せ御用立てるようにと返事した。
○一一月二八日この度両鹿角警衛のため出張してきた秋田藩人数へ仰渡された箇条の写は左の通りである。
覚
一、此度南部領為御守衛御人数被指出候には、御鎮静被成置候故ニ有之候間、公儀を重し私憤を挟す専ら民害を除き、
各其業を安し候様可心懸之事。