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一、兼而被仰渡候軍令條之御趣意堅く相守、猶も慎戒を加へ、諸事無怠可相勤候事。
一、押買等不申、及惣而粗暴かましき儀無之様、酒は寒防丈ケ用候て不苦候得共、聊以酔ニ至候事無之様可致事
右之條ニ違背於有之は厳重可被処置もの也。
、喧嘩口論堅停止之事。
一、宿処之不自由賄之麁末可令斟酌事。
一、惣而強談不可致事。
右大総督府より被仰渡候事。
またこの秋田藩兵の鹿角引揚げについて、阿部恭助『あつめ草
またこの秋田藩兵の鹿角引揚げについて、阿部恭助『あつめ草』
鹿角市史資料
編第二集』所収
)のなかに
〓(明治二年正月二〇日)花輪通江去冬より出張之秋藩、急ニ今日引拂候よしニ候得共、迚も壱日ニハ立拂ニ相成
飛少々残り之分明日出立之よし、御城下へも秋田之早参候よし、宇吉御城下出兵迄ハ引拂之模様無之との事、如何
様之変事有之哉しらず。
と記され、『工藤賜日記』
掲
前
にも「正月廿日、旧冬より花輪通警衛の為詰め居り候秋藩、不残引取に相成」と
みえている。即ち鹿角取締りの秋田藩兵は、明治元年
慶應四年九月八
日明治と改元
)一一月二一日から翌年正月二〇日に至る
二カ月間駐屯していたことが知られる。なお盛岡にあった秋田藩小野崎隊も、同様正月二〇日帰還命令により国
表へ引揚げを開始している。
盛岡に設置された鎮撫行政司の組織に、地方を所務する公裁局・公裁司があった。その職掌についてはあまり
明らかでないが、『秋田県史』第四巻維新編によると、公裁司取締一〇人の内根本慎蔵・田中三左衛門は花輪表
へ出役を命ぜられ、伺書の中で次のことを質している。