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藩主父子の行列は、一一月一三日に盛岡を出発したが、秋田兵・庄内兵に前後を護られ駕篭脇のお供人数も残

らず無刀の歩行だち、道具類、挟箱とも一切無いという佗しいものであった。なお藩主と供方の帯刀はようや

く仙台から許されている。

一二月二日、東京に着いた藩主らは菩提寺金地院に謹慎の身となった。一二月七日、八戸藩家老津村大学によっ

て藩主利剛の退隠謹慎、領地の没収、首謀家臣の処分が示された。

今般城地召上られ、東京に於て謹慎仰付けられ、出格至仁之思召を以て家名立下され、更に十三万石下賜候間、血脈

之者相撰び、早々願出可き事。

但土地之儀は追て仰出され候事。

行政官

翌八日、嫡子彦太郎の家名相続を願い出て許された。この封土の削減を申渡された時点では、よもや国替の〓

分を受けるなどとは想像もしていなかった。利剛は側近の目時隆之進らと一三万石の封土について、鹿角・三閉

伊は残したいと次のように相談している。

花巻城、野辺地、田名部、時宜に寄る事。

鹿角相成可く御願申度事、三閉伊同断

澤内は何れにても宜敷哉之事。

(『出陣日記』)