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之進と行を共にした二人の従僕、甚七と伝之助は共に目時の給所花輪通長嶺村の者である。現在も、甚七家には

当時の状況を記した日記や、息貞次郎の書簡数通、伝之助家には鍵屋庭前の血染の小石も保存されている。

一方東京において禁錮されていた楢山佐渡は、五月一四日軍務官より刎首を命ぜられた。彦太郎は名を利恭と

改めていたが、盛岡において処刑することを願出て許され、六月二三日佐渡は報恩寺において切腹刎首の刑に処

せられた。

楢山佐渡

自分叛逆首謀に付、今般朝命に依り刎列首仰付ける者也。

己巳六月廿一日

との判決文面であった。

盛岡藩において主戦論の信念を貫いた楢山佐渡の処刑と、官軍に身を投じてまでも開戦を阻止しようとした日

時隆之進の自刃という二人の悲劇的な死は、盛岡藩の終焉を告げる弔鐘であったともいえる。

二、鹿角の戦死者

戦死傷者の弔慰

開戦して間もなく、この戦いで戦死した藩士の扱いとして、藩はまずその跡目相続を相違

るく行わせることと、香奠五百疋を下賜することを申渡した。即ち『覚書』に戦死者とし

て最初に記載された江刺家力太についてみると、八月一七日の頃に「江刺家力太義、羽州扇田合戦之砌遂討死候

段、達上聞、働之甲乙追て御吟味之上可被及御沙汰候得共、嫡子大吉江跡式無相違被下置」とし、翌一八日の項

【上でみつ了あ月大日