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二浦長太郎戦死す、同十二日敵夜襲の際扇田より仁井田への出口に於て〓卒佐々木六助綱盛、農兵米沢由蔵、〓卒菅
原卯七、〓卒金澤忠太、奴卒成田与助、奴卒藤原市助、〓卒川口子之助戦死す。敵進んで神明堂の本陣に迫るや盛岡
の士六名は其堂前に於て健闘の末、関村大蔵富隆は扇田入口に奮進共に戦死す。此戦や敵味方共死傷者多く開戦以来
の惨状なりしを以て、世俗之れを扇田合戦と云ふ。同月廿八日米内沢偵察の際同所に於て伏に陥り、農兵青山已之助
同工藤佐次郎戦死す。九月二日川口に於て村山廉治重明、同日坊沢に於て奈良熊太正明の二名は対戦中敵弾に觸て戦
死。同日板澤に於て桜庭祐橘の家士澤出可禄吉範、熊谷助右衛門直興、玉井文佐久祐之、立山熊太郎昌俊の四名は敵
の逆襲に会し戦没。九月三日大館に於て毛馬内の士町井卯助昌阜、九月四日谷地頭の敵攻撃の際同所山上に於て花論
の士川口猪太郎義業、同日扇田に於て花輪同心小沼嘉右衛門親孝、同日同所に於て花輪農兵石鳥谷弥助、九月十日大
館に於て毛馬内農兵木村佐之助、同成田六右衛門、同斉藤清太郎、同安保久之丞、九月廿五日大館に於て毛馬内境古
人池田佐五右衛門為吉戦死。以上廿七名の戦死者の外、負傷者数十名を出せり。其内花輪に於ける重なる負傷者は、
奈良七五郎、小田嶋千代司、田村専之助、奈良儀助、大里悦右衛門等之れなり。
なお戦死者の年齢、菩提寺等は第一表の通りである。これは桜山の招魂碑に刻されている氏名であるが、源佐
久吉範とあるのは、弟の可禄吉範の誤りである。
盛岡藩は戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられ、鹿角の人々もいろいろな面で多くの教訓を与えられた。しかし今
は一場の夢と化し、花輪長年寺、恩徳寺、毛馬内仁叟寺等々に苔むした碑がひっそりと建っているばかりである
が、弔う人々も少なくなったのか香華も絶え勝ちである。殊に一基二基とある市内各寺院の墓石は訪れる人もな
く、草に埋もれ捜し当てるのに苦労する程である。