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三、戦後処理

南部吉兵衛の花輪引揚

南部吉兵衛は、鹿角両通に残された武器引渡しその他の終戦処理のため、直ちに盛

凹へ引揚げることができなかった。実際に花輪引揚げの準備にかかったのは明治一

年正月一五日からである。

花輪南部家『諸御用留帳』によると、正月一五日になって初めて「御荷物取仕舞」の命が出ている。連日家由

から人数が本丸へ詰め、その荷仕舞は二四日までかかっている。またその仕送りには、例えば同一八日の記事に

今日の仕送之荷物拾弐箇、三ケ田村鶴田村人足四拾七人ニ而送る」とあるように、給所百姓たちが当たった。

午前五

正月二三日正七ツ時(

)、南部吉兵衛と愛次郎の行列が花輪を出発した。行列の有様は御用留帳に次のよ

時頃

うに書留められている。

御具足櫃継夫三人才領御同心壱人御駕継夫六人御供頭岩館源治御供目付御払方兼長谷川官蔵

諸御道具懸川村多喜人同岩館喜代治同関七九郎同大里祐蔵御鑓清間御床机持長治

若旦那様御供頭川村左学(以下略)

見送りの人々は町外れの升形に詰めて別れを惜しんだ

「工藤賜

日記』

)。その後に家中一統に酒がでて、姥や娘たち

までも加わり残らず酔うたと記されている。

同二五日、米次郎・おみわの出立があり、南部吉兵衛家の花輪立払いが終わった。同日付記事に「御本丸番以

来五日代三人ツ、内壱人締りとして御用人壱人」「夜番今晩ニて限、淋しき事咄ニならず」とあるように、