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その限りない淋しさは家中一同のいつわりなき心情であったろう。

三月二九日に至り、花輪における南部吉兵衛の家中屋敷は百姓地同様の扱いとなる旨の達しがあった。

覚

一、花輪通南部吉兵衛御預御館之外、横町袋丁家中住居之屋敷、以来百姓地石代ニ被成之

一、

一、南部吉兵衛花輪通知行所肝入惣助

前同断ニ付觸頭申付。

三月廿九日

(『諸御用留帳』明治二年四月三日条)

旧領復帰運動

様に記している。

南部彦太郎の岩代国白石へ国替の報が、毛馬内桜庭家中に知らされたのは正月八日のことで

のった。一同の落胆と、その後の領民による旧領復帰歎願運動の様子を『出陣日記』は左の

転封の命は正月四日盛岡表で発表になり、桜庭屋敷より本田宇太郎がわざわざ遣わされ、同七日夜毛馬内に着いた。

八日惣家中が登館し書付を拝見するや「皆々言語を絶え落涙せぬはなかりき」という有様であった。

転封について朝廷へ歎願するため、御国中の百姓町人数千人が東京へ登った。又士分の人々も形を農商に変え上京

した。毛馬内通からも多く登ったが、予

)の知る人々では町人は鎌田屋忠太郎、同已三郎、御給人には馬渕乙次郎、

湾

〓川虎平、石田実継、岩泉達蔵、川村春治、家中には杉原篤司、石垣銑五郎、中津山直右衛門である。又知行村々肝

入共荒川の丑之助、瀬田石の平助、大欠の半六、高清水の善蔵等は八戸侯へ歎願に出向いた。

権判事林半七が正月末に盛岡へ来るというので、又々御国中の農商人が林氏へ歎願にでかけた。この時鹿角郡の農

民の出した歎願書は左の通りである。