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志と共に親藩要路の間に奔走し、転封阻止其他に付大いに画策尽瘁せり」と述べられている。『あつめ草』には
一、正月十六日、東京へ脱走歎願之者御領分中より追々馳登り候よしニて、御山内よりも夫々脱走有之、今日方中通
直治、御手代内田周治、獅子沢の重治、右の者とも出立いたし候由
一、南部遠江守様、若殿様、御領内御百姓共歎願ニ付東京へ御登りの由ニて、十六日の頃御城下へ御止宿被遊候由、
尤八戸え歎願の者毛馬内在より四拾人程参候、内弐人御召連外ハ御戻しと申事、右の外福岡三戸五戸七戸野辺地田
名部其外、御領内の内よりも何程参り候哉、不少事ニ可有之候。
とみえている。南部遠江守とは、八戸藩主信順である。また歎願のため上京し、最後まで南部利剛に勤仕した人
に尾去沢の高田周助がいる(
「遺烈
余芳』
然しこれらの運動は、領民の自発的なものというより、国替によって最ま
不利益を蒙る南部家臣や御用商人の扇動によったとの見方が強い。それは歎願書が武士の願書形式であることや、
上京した人々のなかに農民に変装した藩士の混っていたことなどが指摘できるからである
給人・家士らの帰農
鹿角郡はじめ九戸・閉伊など七郡が真田信濃守・戸田丹波守の取締るところとなり、
明治二年四月二四日南部家家老野田丹後・戸来楽眠より真田藩小幡内膳、戸田藩西郷
庄右衛門へ旧領絵図並びに諸帳簿が引渡された。この引渡し御用のため、四月一四日両鹿角へは南部家目付山屋
直次郎、勘定奉行帷子繁治、雇勘定方片岸金次郎・福田仁太郎が遣わされ、その事前準備を行っている。新た〓
盛岡県の権知県事として鹿角郡などの管下を取締ることになったのは、信州松代真田藩士小幡内膳であった。
かくて、南部家中の白石移転は、五月より八月迄に終るよう達があった。非常の場合でもあり、旅費は自弁で
〓物等も身分に応じて厳しく制限された。新領は土地が狭少で諸士全員を召抱えることは出来ないので、農商に