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無之条、銘々愁歎勿論之事ニ候得共、如何様共活業之見込致可申候」と、お暇を下さるので農商に帰るべしとの
申渡を受けた。
毛馬内においても六月二日、桜庭祐橘が自筆をもって家中に永のお暇を申渡している。その全文け
此度御新領へ引越候に付而は、一統召連れ度心底は勿論に候得共、先般上より仰出され之通り聊かの月俸頂戴に付、
統扶助之調に至り兼、旧来之好み永訣に忍び難く、且此間申出之趣眷顧之情感激に堪ず候得共、據無く一統暇差4
候条、各見込次第農商之内に帰し生計相励み申可く、万一異説を唱ひ動揺ケ間敷義之れ有り候而は、君公御勤王之御
素志に相背き我等之恐入候義深く勘弁致す可く、後而御収納御取調之上御宛行増に相成可き哉之御沙汰柄も之れ有り
候得は、其期に及び召返候事も之れ有可く候間、如何様にも艱苦を忍び、子孫相続永く旧好を忘れざる様致度事。
六月
(『出陣日記』)
この申渡しにより桜庭家中の者はすべて帯刀をやめ、給人達も先月野田丹後の達によって皆廃刀していたので
鹿角中に帯刀の者一人もないという状態となった。
給人の場合は殆どが家代名で別に生業を持っていたので、その転換は容易であった。その上給人や花輪南部・
大湯南部・桜庭三家の家臣団も扶持方・金方が少なく地方知行取であり、旧給所地を所有する地主となったので、
何とか生活を維持することが出来た。例えば花輪の小田島由義は徳弥名で八幡平長嶺の枝村和田に帰農し、毛馬
内勝又周治は旧来の家代勝田屋丹治名で商業を営なみ、二四〇石余の給地をそのまま所有する地主となっている。
明治二年五月の時点までは鹿角両通の代官は在任しており、その組織はしばらくの間維持
これたとみられる。また花輪南部家の家士の秩序も、旧態と変りなく内役人を中心に保た
れていた。