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たきのミならす、いよいよ領主の罪をまし此上御沙汰に及れ候ようなり行候てハ、却て領主の迷惑となる事なれバ、其

方どもよくよく此道理をわきまへ、かならづさわぎ立申まじく候、日本の地に生れし人々ハひとしく赤子と思召され

一人として安堵せぬ者もなく、蝦夷松前のはてまでも御撫恤の行届き候様にと、日夜叡慮

傍注おん

こころ

)を労られ、おい

おい有がたき御措置もあらせられ候事なれバ、諸事仰出されに背かず安穏に家業を出精いたし可申、かへすかへすもさ

わぎ立申まじく事

明治二年己巳二月行政官印(句読点筆者

盛岡県へ引渡

一見、かみくだいた振り仮名づきのこの人民告諭は、当時の人々にどの程度理解されたかは別として、新政府の

強行する旧領主転国等の大義名分の、拠って来るところを明らかにしたものであった。

南部氏白石転封発令後の二年二月二五日一

旧一月

一五日

、朝廷直隷地を管理するため会計官権判

じはやしともゆき

半七、山

事林友幸(

〓)が盛岡に着いた。久保田藩の南部表鎮撫行政司は、その五日後に組織

口藩士

を解き帰藩となる。白石転封阻止の歎願も、以後もっぱら林権判事にむけて行われることとなった。旧二月一一

上台村

日付毛馬内の倉助一

毛馬内

村肝入

〓)・市左衛門

刀谷村

肝入

)から米吉

小平村

肝入

t)・徳右衛門

)に宛てた書面に「この

肝入

〓度御城下表へ林半七様御出張に付御城下井びに在町御百姓共願い出候処、鹿角通斗り歎願相見え申さざる趣

(略)明後十四日拾軒より壱人の見込、未明差立候様談合に相成り申し候」云々と記されている(

『御用留帳』倍

賞家文書

林権判事の盛岡下向ののちは、同人の指示によって旧盛岡藩からの、各取締藩への引渡し事務準備が着々と進

旧三月

行した。その旧領取締のため、ようやく五月八日

)に松代藩・小幡内膳一行が下向し、次いで五月一一日

二七日

三月

〓)に松本藩・西郷庄右衛門一行、そして五月一八日

旧四月

○日

ケ)に黒羽藩・村上一学一行がそれぞれ盛岡に到

七日

着した。小幡は鹿角郡を含む盛岡県(

乙戸郡一部、鹿角郡、岩手郡、紫

波郡、閉伊郡一部、稗貫郡一部

)の権知県事、西郷は花巻県(

〓仙郡一部、江刺郡、和賀

拾、稗貫郡一部、紫波郡一部

)。