テキストを表示

盛岡県菅権判事らの鹿角における行動はあまり明らかでないが、『諸御用留帳・明治二年』

日付は

川村家文書『鹿角市史

資料集第十二集』所収

)

には花輪館預りの南部吉兵衛家中の対応として次のように記されている

)。

旧暦

〇五月八日

「日近日御引渡御用のため御役方が通行されるであろうから、門前立見など決してしてはならない。御引

渡の節は門前掃除を致すべきこと。朝廷御役方ご通行の節は、不敬は勿論すべて不作法がないよう心得申すべきこと。

○五月一〇日大里文右衛門、矢沢新左衛門、川村多喜人が、一一日の御引渡御用に付、御本丸詰を仰せつけられ

た。

〇五月一一日長谷川官蔵、佐藤練助、関七九郎が御引渡御用に付御本丸詰仰せつけられ、相勤めた。川守田織右

衛門も同様である。御引渡があるため、吉田貞作宅にて御用儀がなされたこと。

〇五月一二日花輪通御引渡が相済んだ旨御沙汰があったので、家中一統へ廻紙をもって達する。御預りの御館も

同様一一日に御引渡が相済んだ。

これらの記事から、おそらく一一日においておおよその花輪通の諸事務および花輪館引渡しは完了したもので

あろう。一二日、一三日の動静については前述の『あつめくさ』の通りである。

また、『出陣日記』(

内藤調一筆『鹿角市史

資料編第一集』所収

)の伝えるところでは、旧五月一五日朝廷御役方権判事はじめ調役・

旧盛

書役・筆生等に、御国

)の役方目付山屋直次郎・勘定奉行惟子繁治らが付添い、菩堤野へ廻って穴堰を目

岡藩

分ののち、暮七ツ時(

午後四

時頃

)毛馬内へ到着した。翌一六日、御館および御官所、ならびに市中共に引渡した、

としている。即ち毛馬内は一六日に引渡しをほぼ終ったとみられる。

各通において引渡事務が進捗していた頃、盛岡城隅御殿において旧五月一四日(

六月

二三日

)南部

士分の帰農

家中の大半に対し、このたび減禄転封になったため拠無く暇をとらせるが、銘々見込次第農

問に帰し如何様にも艱苦を忍ぶようにとの申渡しがあった。次いで同一六日には旧藩制における各役職、例えば

盛岡藩

)とすることを命じている

「覚書』

)。