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凹鹿角の所給人らへ御暇申渡しのため、家老野田丹後、付添役目付萩原勇馬、楢山蔵之進の一行が毛馬内

に到着したのは一八日のことであった。明治二年『御境御用留』

毛馬内・勝又

家文書

)によると、一八日御境役勝又官

午前

兵衛等に対し毛馬内通代官から明一九日朝五ツ時

、御境古人・御境附山見等残らず召連れ詰めるよう達

八時

があった。当日は仁叟寺において野田丹後から給人・役医へ、目付から御境古人以下への申渡しがなされている。

花輪通の給人等へは何日に申渡しがあったか明らかでない。『あつめくさ』には、旧五月二〇日花輪へ出向い

たところ、野田丹後ら諸役人がおいでの積りで花輪・長年寺に諸士が詰めていたけれども、丹後は今日小坂銀山

午後

一見のため七ツ

頃になっても到着せず、空しく解散した。右の御用向は所給人に残らず御暇下さるとの

匹時

由である、と記されている。

中野

一方花輪南部家

野)・毛馬内桜庭家・大湯南部家

の家士一統に対する御暇申渡しは、さらに何日か

後のことであった。花輪南部家の家士には、五月二六日家老岩館源治宅において、桜庭家の家士には六月二日、

その場所は明らかでないが、桜庭裕橘自筆の書付をもってそれぞれ行われた。大湯南部家の申渡しは記録を欠い

ている。大湯南部こと南部伊豫については戊辰戦争の責任を問われて元年一〇月家老職を免ぜられ、さらに翌年

五月大義順逆を取失ったとして、身帯召上げ、親類預けの籠居の処分を受けた。八月に至って嗣子北岩太郎に対

し、先祖累代の功労と格別の旧家であることを思い、上士に召出さるとの恩典があった

盛岡藩

「覚書』

〓。

かくして鹿角在住の給人および花輪南部ら三家の家士たちは、先祖代々の主家と家禄を失い、それぞれ帰農も

しくは帰商することとなった。のち四年五月、戸籍編成の際にはすべて平民籍に編入されている。後年これらの

人々が士族籍に復するのは、明治三〇年以降のことである。