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士族復籍については、まず三〇年一月花輪毛馬内両通の旧給人の復籍が許可され、次いで三一年一月旧同心も

士族籍に入るとの指令があった(

小田島由義日

記『伏雲叢書』

○花輪南部家旧家臣六一名の族籍訂正は、二八年一〇月提出され

たが翌年九月却下され、三〇年復族再願書を提出、翌年一〇月に二四名の士族編入が聞届けられた。三二年二日

再び四一名の請願書を提出したが、一一月にうち二二名許可・一九名不許可、再々度三三年四月一八名出願する

などの曲折を経ている(

川村家家蔵

関係文書

)。毛馬内・大湯旧家臣も二八年から訂正出願運動に入っているが、願書提出

は三〇年以降であったように思われる

二八年「士族籍訂正願材)

料書類」諏訪家文書

)。

方農民や町人に対しては、旧藩からどのような訣別がなされたのであろうか。僅かに小平村肝入『御用留帳

倍賞満文

家文書

〓)から、次の被仰渡と肝入検断への被下物のあったことが知られる。

百姓/町人

此度御取締の向々へ御旧領御引渡を成され候条、此旨を相心得申す可く候、数百年来家業怠らず深切に御国用を相勤

め候段、奇特の至りに候。

五月十六日仰渡さる。

一、検断/宿老/肝入共

数年来深切に御国用を相勤め候段、奇特の至りに候、依て御紋御土器井びに御酒御肴を下さる。

五月

右の通り御家老野田丹後様、御目付楢山蔵之進様、荻原勇馬様、御徒目付様井びに毛馬内御代官太田郡左衛門様、御

物書太田半十郎様御列座にて、御沙汰を相蒙り申し候、御酒御肴代五百文共頂戴仕り候

五月十九日

一、

一、

いずれも短かい文言のなかに、深い惜別の情がこもっているのを感じとることができる