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二、めまぐるしい新県の変遷

盛岡県治

現在市内の肝入文書等のうち明治二年の行政の動きを書きとどめたものとして、前掲の小平村

肝入『御用留帳』』が唯一残っている。その御用留帳に初めて「盛岡県御役所」と明記した示達

七月

のあらわれるのは、旧六月一一日(

)夜柴内村から順達された御用状である。これは四、五月に行政官〓

一九日

よび民部官から政府発行の金札を差別なく通用させるようにとの告諭で、末尾に「盛岡県御役所」とし、宛先を

毛馬内通鹿角郡柴内村・小平村・上台村・草木村、右村々名主・組頭・百姓代と記している

次に認められた廻状は、今年は牛馬肝入の当歳牛馬改めの廻村はしないので、村々名主・組頭・百姓惣代はそ

れぞれ有馬取調帳、当歳牛馬取調帳を作成し差出すようにとのもので、六月一五日付「盛岡県御役所」とし同じ

く毛馬内通各村々の名主・組頭・百姓代に宛てている。この名主・組頭・百姓惣代(代)は盛岡県における村方

三役で、名主はこれまでの肝入がこの呼称に替えられたものであった。御用留帳には以後小平村名主所、毛馬内

名主所とか柴内村名主勇之助、小平村名主米吉、草木村名主儀右衛門、小平村組頭佐七、寺坂村組頭甚助などの

名が散見してくる。

次に盛岡県治下のおもな動きをたどってみる。まず元年に鍵屋茂兵衛の経営に移った尾去沢銅山には鍵屋支配

人沢田忠兵衛が滞留していた模様で、旧七月三日には春以来盛岡に在った林友幸が鍵屋支配人新兵衛同道にて来

『あつめ

山し、二泊ののち小坂銀山へ向っている(

)。なお小坂銀山については間もない七月一六日に、暫時休

くさ』

山となる旨、盛岡県御役所から通達があった(

小平村『御用留帳』』

以下同書から

)

)。