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対しては「是迄の取締の地所、今般江刺県・九戸県支配に仰せ付けられ候間、知県事着県次第、同県へ引渡し申
す可き事」が命じられた。これらの置県は、これに先立つ七月二二日一
八月二
九日
)南部利恭が旧地盛岡復帰を許さ
れ、翌八月一〇日には盛岡藩知事を命じられるという新たな展開や、官軍各藩による奥羽収公地の分管取締の解
除、ひいては廃藩置県の先行的施行
土藤利悦「江刺県の沿革」
『花輪町誌編纂資料第一号』』
)によると考えられる。
九戸県の管轄区域は、これまで松代・松本両藩取締であった鹿角郡・九戸郡の陸中二郡と、黒羽藩取締の二戸
郡・三戸郡・北郡の陸奥三郡の合わせて五郡となった。その内八戸藩と七戸藩の領地は、当然県域から除かれて
半
いた。九戸県権知事には、盛岡県大参事の林友幸一
)が任命された。
七
○月
しかし九戸県は、わずか三〇日足らずで八戸県と改称される。すなわち九月一三日(
)、太政官から
七日
「九戸県、自今八戸県と称し候様仰せ出され候間、此旨相達し候事」と布告され、八戸県権知事に元三戸県権知
光雄、黒
事村上一学(
)が任命された。その八戸県も、数日を経た九月一九日「八戸県、自今三戸県と改めらい
羽藩士
候事」との布告をみるに至る。その理由は明らかでないが、八戸県と八戸藩の混同を避けてのこととも、村上一
学が八戸県権知事となった後も役所は三戸にあったからともいわれる。三戸県権知事は引続き村上一学、その役
所は三戸の旧三戸通代官所跡に開庁された。
このように二転三転をみた結果の三戸県も、七〇日程のちの一一月二九日
三年正
月一日
)に廃止、江刺県への合併
となる。
鹿角の村々へは、九戸県や八戸県改称のことは殆ど報じられなかった。小平村『御用留帳』で見る限り、九戸
県、八戸県はまったく記されていない。三戸県に替るとの觸書さえ、なお「盛岡県御役所」で出ている。一〇月