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会議は一一月一三日一

一月

二日

明)から同一七日まで続行され、民部省から渡辺民部大丞以下大木庶務大令史・加藤〓

務大佑らが、江刺県からは那須大属が参画している。

この三陸会議における会議の結果、税制をはじめ備荒倉、育子法、郡村規則、出納規則等々各藩県に共通する

諸規則の協定ができ、三年一二月から翌四年春へかけて藩県ごとに実施に移されている。例えば四年三月花輪・

毛馬内両通に郡長役を立てるに際して村々庄屋へ「三陸二藩四県決議之上、郡長役仰せ付けられ相立て候義に付」、

また同じく四月に出された官員巡村に関する布告に「管内の規則三陸藩県一定ニ付」などと記されている。

村々の疲弊

一年は天候不順で作柄がごく悪く、江刺県は花輪役所開庁まもない三年二月に、凶作に付き極

負飢餓の者を親類・組合または村町にて救けるのは勿論であるが、猶行届かざる向は訴え出ス

よう村々へ布告した。その惨状について「田中正造昔話」

『田中正造

全集』所収

は、やや誇張を含みながらも次のように

述べている。

時恰も二月下旬の頃、鹿角・二戸両郡中、山に阻てられ谷に圍まれたる僻村落に於て、昨秋来凶作のため村民皆飢儲

に逼り、餓〓道に横はるとの悲報に接せり、予乃ち実地見分の命を受けて出張したるに、其実地は報告よりも猶甚だー

きものあり、二戸郡は食尽きて既に牛馬数千頭を屠り、鹿角郡なる山間の各僻村は雪中薇の根を掘って之を喰い、〓

稗糠に塩を混じたる粥を啜りて僅かに露命をつなぐが如き、見るものをして実に惨但の情に堪えざらしむるものあり、

(略)直ちに右の趣を復命に及び、(略)漸く秋田米五百俵を取寄せて茲に辛くも救済の道を立てぬ。

二月二六日着任した田中正造は、直ちに救助窮民取調のため翌二七日小深田村・鏡田村、二八日神田村・高呂

村、二九日草木村、三〇日柴内村・乳牛村・高市村・長野村を廻っている。極窮の各戸について米・稗・粟の保