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有量を記帳したなかには、「何もなし」「糠ばかり食すという」「蕎麦の花・ぬか、稗のから食すという」「萎

麦のメクソというもの食すという」などの表現がある。とくに草木村のある家について「から稗壱石六斗、粟

なし。此義正造如何敷、後釜改めいた候処、稗のからのママ煮て塩を入粥にしてあるを見、是を以前を見歎息)

〓えず泣涕いたし候」と記した個所もみえ、彼の熱情ぶりを窺わせている

日記」、『田中正造

全集』第九巻所収

)

)。

〓月に入り、県は米百石を花輪毛馬内両通の窮民用とし、一人に付き二升五合当りを貸付け、代金は後日秋田

旧場で支拂わせるとの措置をとった。ほかに毛馬内通の貧窮の者に対して無報酬の医療を施す医師として、毛馬

内の后安、文友を指定している。

その半面巳年(

)年貢米・雑税の未納分については厳しい催促が行われ、皆済できない場合は村役人一同の

越度であるとし、七月に至ると再三の呼出にも応じない村へは捕亡下役の者を差向けるとの督促がでている。

三年はほぼ豊作であったので、一〇月一八日(

)花輪役所より両通村々の庄屋へ宛て次の達があった。

一日

年貢米上納の時期になったから米はごく念入に干揚げ、縄菰の用意をして置くこと、今年より俵造は二重俵とな

毛馬内町は庄

り桝目は四斗二升三合、その雛形俵一俵は花輪町庄屋の要吉

)へ下げ渡して置くとの要旨である。

屋元とのみ

一一月

同閏一〇月八日(

〓)には、上納日割を一七、八日頃からとし、米生を吟味の上俵拵主・舛取・庄屋

三〇日

の印形を俵に入札し、その上俵へ差札にて四斗二升三合入

もとは三斗

七升入れ

)と表示することを達した。そのほか一一

月には、藩政期と同様の郷割銭を上納するようきびしい通達が行われている

小平村『御用留帳』、長嶺村

『御觸帳』、大湯村『通達綴』

藩政時代の村役人である肝入・老名・組頭、あるいは町方役の検断・宿老などの役名は、県の

村々の役職

改置にともない度々変わっている。松代藩の取締下ではしばらく旧藩のままに踏襲されたが、