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右の定めによる花輪村村長として石木田要吉・高瀬惣五郎・折戸市郎右衛門、毛馬内村長に鎌田倉助、柴内村

長に金沢徳太郎などがあげられ、ほか前掲の三年五月の庄屋名と全く異動がない。なお四年五月から、五人組の

組頭として伍長の名が使われ始めている。

附属田中正造

江刺県附属田中正造が、開庁まもない花輪分局に着任したのは三年三月二六日(

四月一

六日

)のこ

旧花輪通

とであった。その途中田山宿一

)に不穏の空気が漂い、先日国府大参事宿泊の時暴徒

現安代町

が騒擾し官林盗伐の囚人をとり戻したという話を聞き、占領地同様の治め難き未開の地と感じたのがその第一印

象であった。庁内の政務は整わず、吏員皆詩を高吟し書を揮毫するなど、あたかも浪人部屋のごとき観を呈して

おり、夜中に不平士族が支庁を襲うとの虚報に庁内周章狼狽すること二度に及んだと、後に述懐している。

着任の翌日から村々の窮民調査に巡回し、毛馬内通窮民一、八〇〇人に対し一人一日一合宛の救助米を手当した。

四月七日聴訟掛兼山林掛を命ぜられてからは、さまざまな訴訟や罪人の召捕を手がけるとともに、畑返披立、土

地開墾、川普請、杉取分林、牛馬締役、新規馬喰、猟師等々の諸願書をうけ、その事務処理に忙殺された。

川村

江刺県学校である花輪寸陰館の『入学簿』

)には、「入寮明治三午八月朔日、附属分局詰田中正造廿六歳」

家蔵

と記載されているところから、寸陰館に入学していることが知られる。田中自身の「回想断庁」〓〓

『田中正造全集』

第一巻所収

にも「鹿角郡には最初寸陰館に入館し、内藤魯一等を師と仰ぎて勤務の外に研究する所あり」と記されている。

但しこの時の田中の年齢は、天保一二年(一八四一)生まれであるから三〇歳であった。

〓年二月に至り、田中正造にとってたいへん不幸な事件が起こった。二月三日)

二月一

二日

)の夜、上司である権大

属木村新八郎が、官舎において就寝中何者かによって殺害されたのである。木村の官舎は支庁(

旧代

官所

)構内にあっ