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右は大湯村『通達綴』(
諏訪
)の記事であるが、草木村庄屋義右衛門書留の写し書と思われる。次いで一
家文書
〓二〇日両通村々から「差上げ奉る御請書の事」として、御達の通り村内一同にて再三家別に取調べたが左様の
者一人も見当らず、もし後日露見することがあってどのように重き咎めを受けても毛頭申し分はないとの請書を、
庄屋・大組頭・百姓惣代はじめ小前一統連印の上いっせいに提出している。
事件は未解決のまま過ぎ、田中正造は種々探偵に心を痛めながらも、鹿角・二戸二郡における二八〇余件の開
墾地請願許可分の整理に没頭した。その執務ぶりが認められ、開墾事務終了次第本県詰とする内命のあった矢先、
七月
事件以来四カ月有余経過した六月一〇日(
)に突如権大属殺害犯人として逮捕されたのである。嫌疑のも
六日
とは、介抱の際に付着した袴と足袋の血痕、木村の次男の凶行者は色白く小紋の衣服を着していたとの証言が田
中に似ていること、生前の木村と職務上しばしば激論を交していたこと等々であった。木村との激論の一つに着
任間もない頃の、窮民救済のための扶助米配分にかかわることがあったといわれる。いずれにしてもそれは田中
の直情径行の正義感と〓気の然らしむるところのものであった。
しかしその後田中の釈明は入れられず、花輪分局獄から江刺県獄に護送され、翌五年春盛岡監獄に移って翌々
七年四月五日無罪釈放まで、三年近く獄中に呻吟せざるを得なかった。その間に彼が自らを養った不撓不屈の意
志と官憲に対する批判力が、その後自由民権運動に身を投じ、第一回衆議院議員当選以後もっぱら足尾銅山鉱毒
問題に身を挺する原動力となったのであろう
「田中正造全集』
第一・九巻
)。