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御布告
行われた。しかしその底流には、長い間南部領として陸奥国
明治元年旧一一
月より陸中国
)に属し、かつ戊辰戦争において戦
火の中に応酬し合ったのち、心ならずも賊名を負うたまま出羽国
同じく
羽後国
側の秋田県に新附の郡として編入さ
れることには、少なからざる違和感があったものと思われる。
明治
(新県の執務態勢が整うまで暫くの間、鹿角郡の施政は元江刺県花輪廳が引続き担当した。即ち未年(〓
)分
四年
の貢米検見引や郷割銭割当は勿論、頻繁にわたる太政官布告等の伝達、諸願書の処理から開墾山林下調役等の任
免までも行なっている
明治四年『御觸帳』
阿部家文書
〓
)。
阿部
一、小田嶋徳弥/奈良駒治
今般開墾山林下調申付候事。
一、川村善太郎/関市之助
開墾山林下調差免候事。
右心得として相達候条、小前末々迄無洩様相達す可き者也
申二月十八日江刺縣花輪康
旧三月
新旧二県の事務引渡は、明治五年五月六日
)に行われた。同日付で毛馬内市長所が同御町中に宛てた
二九日
觸書には「花輪御役所是迄江刺縣之處、今日秋田縣江御引渡ニ相成候条、小前末々迄不洩様心得可被成候」と記
されている一
前掲『御
用留
)。同文のものが、各村においてはその村長所から管内くまなく達せられた。市長は江刺
県の治下における町年寄の、村長は同じく庄屋の呼称であるから、この時点まで旧県の行政体系がそのまま温存
され機能していたことになる。即ち名目的な新秋田県の誕生は四年一二月一三日であったが、実質としてその発
足は五年五月六日以降であるとみなければならない。