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ての引渡後の経緯は、前掲『御觸帳』になおくわしく書留められている。まず「明治五年壬申三月廿九日花輪

御役所江刺縣廃サレ候事、同四月二日ニハ引渡相済、直ニ秋田縣出張所ニ相成申候」とあり、以下その順を追う

と次のようである。

更を代ノ名唱を相廃、更ニ里長を置かれ事。村落之儀ハ徒前親舞肝入井長百姓ノ名唱を相廃

、市街之儀ハ従前庄屋町代ノ名唱を相廃、更ニ里長を置かれ候事。村落之儀ハ従前親郷肝入井長百姓ノ名唱を相廃、

更ニ里正を置かれ候事。

壬申四月秋田縣(略)

一、今般両通郡長免役仰付けられ候事。

一、今般御出張ノ御役人壱人、御役所え引移申候間、銘々御目見致し可く候事。但昨日引移リニ相成申候間、明日迄ニ

急度罷出申す可く候事以上。

一、四月十三日江刺縣廳花輪御役所御廃しニ相成候ニ付、里正所より通達これ有り、御相談ニ村々里正衆中罷出、右

条ハ相應ニ仕リ候。

一、四月十六日花輪御役所え秋田縣官員壱人、御役所え御据り成られ候ニ付、御目見ニ村々里正共参り申候、其時谷内

藤助川部治五右衛門甚五平、右ノ人数同道ニて参り候

右の一六日(

記事中、秋田県官員壱人の部分に小さく「小川公」と傍書しているので、初めに花輪に赴任

してきたのは小川一誠であったとみられる。以後県の示達等は、殆ど「秋田縣花輪詰」の名で発せられている。

なお秋田県花輪詰における五年七月当時の職員と、その分担事務の内容は次の通りであった。

花輪巡回詰県官員益子正道小川一誠

分課

一、租税開拓出納物産驛逓諸免許税物産ニ属ス奈良巳代治

一、聴訟山林社驛逓戸籍簿書之類庶務ニ属ス奈良駒治

一、山林牛馬物産庶関市之助