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当時どのような人たちが里正・里長に任命されていたかは、あまり明らかでない。里正・里長の名称はこの年
の旧暦八月に廃止されることとなるが、その廃止の觸書のなかに記された左の人々が、両区の里正・里長たちで
あった(
『御布告留』明治五年
・阿部
・阿部家文書
〓
)。
久保
中嶋藤右衛門(
花輪村
里長
)折戸市郎右衛門
花輪村
里長
)石木田要吉
花輪村
里正
-)三ケ田熊之助
松館村
尾去村
)高瀬惣五郎
田村
大里
湯瀬
川部
安保長助
)斎藤市太郎
長嶺
小豆
沢村
)阿部市助
)阿部甚五平
)神田治五右衛門(
村
村
村
村
長牛
長内
石鳥
綱木徳助(
)綱木昌右衛門
白欠
村
)阿部左内
三ケ
田村
)佐藤甚蔵
)大石権八
村
村
谷村
高屋
新田与七
三ツ矢
沢村
)兎沢五兵衛
村
ほかに尾去沢銅山里正は澤出善右衛門、谷内・夏井両村里正は阿部藤助であった。第一・二小区については断
片的な記録しか残っておらず、小平村里正米田米吉、大湯村里正諏訪善兵衛、松山村里正村木熊之助、土深井村
里正成田喜右衛門らがあらわれている。諏訪善兵衛の辞令は五年八月に発せられているので、里正廃止直前の任
命であった
諏訪冨多『大
湯の歴史
)。
第七大区の制定
これより先、秋田県は太政官布告による県内の戸籍編成を実施するため、四年一〇日
旧八
月
)に九大区一一六小区の調査地区を決定していた。然し鹿角・由利二郡が新たに編
入されたのを機に、五年四月一
旧三
月
)、八郡を二〇大区一〇四小区とする新区制を設定した。大区の区分はお木
に地勢によって分け、小区は戸数千軒内外を標準として、近隣の村々を適宜組合せたものである。鹿角郡全域は
第七大区となり、さらに四つの小区に分けられた。その処務に当たるため大区に区長一人、小区に戸長一人、副
戸長二人および手伝若干名が置かれた。その区分とおもな役員は、次表の通りである。