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旧来の村々は旧藩時代以来の共同体的諸機能を保ち、隣保・親睦は勿論のこと、日常生活においても他村と同

一にはなれない慣習や独自の行事をもっていた。県はそれらの旧慣を無視できず、前述のように一村ごとに伍長

総代を置き、村の代表として村民の指導に当たらせることとした。とくに地租改正を初めとする諸改革を進める

ためには、まず村民の納得と協力を得ることが不可欠であった。そのため地方行政の流れは次第に画一的な区制

から歴史的・自然的村落としての旧村を重視する方向へと変わってきた。

七年一月県は、村々の合併を勧奨した大蔵省達一

六年一二月二五

日付一八六号

)を示したが、その内容は「従来獨立の村落た

りとも、戸口多からず、反別稀少の分は便宜合併致さす候ては、毎年無用の労費を掛、區入費并村費も相嵩、人

民の不便利と相成候村々は、漸次合併の積見込相立」て伺出るべきこと、というのである。即ち旧村を尊重した

上での、経費負担の節減等をめざした合併の慫慂であった。これに対し県内の村は、ごく一部に合併申請の動き

があったほかは殆ど同調するところがなかった。行政上独立村としての存在意義が不明確なこと、慣例上の財産

を所有する村の多くがそれを失うことを虞れたからといわれる。

しかし八年以降地租改正事業の進行につれて、村の合併は大きく増加の方向へむかうようになった。それは地

租改正の調査にともない村境や区画是正に多くの紛争を生じたこと、改正作業の当事者となった村々の伍長総代

たちの間に経費の共同負担等も含めた意見交換が活発に行われたことなどによるものであった。

このような動きは、小平村を中心とする村々では既に六年の頃から始まっていた。例えば六年一二月『酉年諸

入費井金目反別反米取調入費共割合帳』の表書には、「小平合村惣代米田伊助、同児玉正二郎」と記されている

米田

家文書

)。また小平村には、次の文書が残されている。