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総代人によって選ばれた。

当郡内の総代人氏名については、今のところ記録を欠いている。一〇年九月の区務改正は、従来の大小区制を

仔続させながらも、明治以前からの生活共同体である旧村の機能を復活させたものとして、その意義は大きい。

新しい郡・町村

さきの大小区制は、新政府が急遽中央集権政治へ移行するためにとった方策であったが、

ての後内務省内部においても、数百年来の慣習である郡や町村を復活すべきであるという

議論が高まっていた。明治一一年七月に至り、地方行政の体制改正を図る郡区町村編成法が公布された。

この編成法は、簡潔な条文で表現され、第一条に「地方ヲ画シテ府県ノ下部区町村トス」、第二条に「郡町村

ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル」、第五条に「毎郡ニ郡長各一員ヲ置ク」、第六条に「毎町村ニ戸長各一員ヲ置ク、

又数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得」などを定めている。大小区制の下において殆どその本来の意味を失っていた村

が、ここに法的存在として再生し、旧名、旧区域のまま独立自治団体たることを法定されたのである。なおこの

郡区町村編成法とともに府県会規則・地方税規則も同時に公布され、これを一般に地方三新法とよんだ。

県では編成法公布を機会に、広濶にすぎる秋田郡を南北に二分し、風土・人情が似ている鹿角郡を北秋田郡に、

河辺郡を南秋田郡に組合せたいと内務省に上申したが、いずれも不許可となった。次に、当時の鹿角郡に対する

県の見方がよくあらわれている、その上申書ならびに趣意書を掲げる(

『秋田県史』

資料明治編上

)

)。

〔羽後國秋田郡南北二郡に分畫及ひ同國河邊郡、陸中國鹿角郡を分畫二郡に組合の儀再上申

(上略)又鹿角郡の北秋田郡に於る國郡異なりと雖とも、担途相通し風俗略同しく、接續の便亦河邊郡の南秋田郡に

於るものと同一般にして、其米代川は鹿角全郡の諸川を聚合して直に北秋田郡を経、遂に山本郡能代港に至り海に入