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従来一般の人々も業を休んで祝う風習のあった人日(一月七日)、上已(三月三日)、端午(五月五日)、七々

七月七日)、重陽(九月九日)の節句を廃して、神武天皇即位日と天長節両日を祝日と定めた。さらに同年三日

七日神武天皇即位日は紀元節と名づけられ、太陽暦によって辛酉年正月朔日と推算された。ついで同年一〇月

四日の布告により、一月三日元始祭、一月五日新年宴会、一月三〇日孝明天皇祭、二月一一日紀元節、四月三日

神武天皇祭、九月一七日神嘗祭、一一月三日天長節、一一月二三日新嘗祭が「年中祭日祝日等ノ休暇日」と定め

られた。一一年春季・秋季皇霊祭(春分・秋分)が祭日に加えられ、同一二年神嘗祭が一〇月一七日に改まり、

のち一月一日四方拝も祝日となった。

このように政府は祝祭日を休日とし国民に奉祝させようとしたが、その後長い間官庁や学校の儀式として行わ

れるにとどまり、むしろ廃された筈の五節句などが国民の生活のなかに生きつづける結果となった

廃刀令

これまで四民の最上位にあった士族は、一転してその権力ヲ失い不遇の境地におとされた。毛

馬内給人にあっては二年五月一八日、南部利剛の白石転封により御暇下しおかれるとの通達を

つけた直後から、脱刀する者が多かった。また同処桜庭家中では、六月に入り桜庭陽之輔より家中一統へ永の御

暇を賜わるとの書面が届いて以来、脱刀の者が相次いだ。即ち「此令あるより御給人も皆脱刀なれハ、鹿角中に

帯刀之者一人もなかりき」

内藤十湾

『出陣日記』

)という有様になった。伊藤良三は「私が子供の時に祖母から聞いた記憶に

よれば、丸腰丸坊主になって何だか変な気持だと云い合ったということである」と回顧している

伊藤良三『毛

馬内郷土史稿』

)。

このような状況は花輪も同じで、『小田嶋由義伝』

関善次

郎著

)には、「維新前後の翁は断髪も廃刀も人さきに断行

し、所謂当時のハイカラなりしならん」と記されている。